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バッグってなんだろう?
そんなことを良く考える。
バッグ・カバンが存在する理由とは一体何なのだろう。
まず浮かぶのは、「物を運ぶ袋」
これが一番大きい理由だと思う。
様々なライフスタイルの中で、それぞれのシーンに合わせ
バッグは進化し、細分化されてきた。
おそらく最初にこの「袋」を用いたのは数万年前。
狩猟に関する物、水の運搬、移住だと思う。
そして農耕による作物を収穫・輸送する為の袋。
貨幣を包み運ぶための袋。
装飾品を持ち歩くための袋。
そうやって人は「袋」を用途に合わせて材料を変え、形を工夫し持ちやすく、沢山の荷物を入れやすく進化させてきた。
そして現在、世の中には星の数ほどの「袋」が存在している。
そして、ふと思った。
「ファッション」という概念が一人歩きをして、本来の存在理由を忘れてしまった「袋」が多すぎではないかと。
もちろん、ファッションが不必要なものだとは考えていない。
ファッションには気分を高揚させる不思議な力がある。
それが無ければ世の中はつまらないものになるだろう。
しかし、バッグとは本来物を運ぶための「袋」であり、ファッションの小道具としての「袋」ではない。
その人が使いやすい機能性。
その人が使ってポジティブになる機能性。
その人が持っている事を安心と感じる機能性。
その人が半年使って、さらに使いたくなる機能性。
これこそが、私の思う「バッグ」なのである。
そこにちょっとだけ「ファッション」を感じさせる。
ちょっとだけ。
私の「今」を決定付けた出来事が4つある。
私は一人っ子のB型で、他人に合わせようとせず一人で遊んでいる方が性に合う子供だった。
絵を描いたりレゴブロックで遊んだり。
外に出てもボール遊びより河川敷の草や生き物に触れる事が好きだった。
どちらかというと目立たない存在。
そんな子供だった。
そして普通科の高校を卒業した後、某大手建築会社の大工となった。
理由は無い。ただ、手に職をつけるような仕事の方がそうでない仕事より食べていけると思ったからだ。
将来の夢など無く、生活できれば良いと考えていた。
その会社を選んだのも、入社と同時に全寮制で2年間の修行を経て、各部署へ配属されるというパッケージだったからだ。
完全な受け身だった。
しかし、その2年間で本当に色々な事を学ばせて頂いた。
社会人の基礎、住宅建築の哲学から技術的な事まで全て。
残念な事にその多くは身に付いていないが「もの作り」の楽しさと厳しさは身に刻まれた。
極寒の早朝に行う校舎や現場の清掃。
炎天下の中、フル装備で果てしなく続く釘打ちや鋸曳き。
宅地造成前の荒地で大人の手首ほどに太く成長した雑草の草刈り。
地上5mの高さにある6cmの幅の木材の上を20kgほどの角材を担いでの移動や高濃度シンナーの
入った接着剤を使っての屋根ベニア板貼りなどなど。
とても辛かったが、先輩からの「ありがとう」や入居者の方々からの挨拶がとても嬉しかった。
自分の行動に対する他人からの好意的な気持ちを感じ、自分も社会の一部であると実感できたからだ。
この時の喜びが1つ目の出来事。
そしてある時、バッグの世界に。
誘ったのは高校時代の友人。
そしてゼロからのスタート。
素材も知らず、名前も知らず、ファッションも知らず。
それでも日々、熱中した。
楽しかったからである。
全ての事が初めての出会いで、全ての事が輝いて見えた。
「もの作り」という共通の仕事で、
自分の関わった商品が見知らぬ人の手に渡り、
その人のライフスタイルの一部になっていくことが
たまらなく嬉しく、楽しかった。
最初はサッカーで有名な某スポーツブランドのバッグ。
量販店で売っているような簡単な商品だった。
その後、某テニスブランドのラケットバッグや
スキューバダイビング器材を収納するバッグ。
某アウトドアブランドのリュックサック。
某スキーブランドのボストンバッグなどなど。
色々な「ギア物」を作らせて頂いた。
そこで私の人生を決めた2つ目の出来事が起こった。
初めて某テニスブランドのデザインコンペで競合を退け、自ら考えた多機能バッグの設計図を工場にFAXした際
(当時はまだメールなど無かった)すぐさま「こっちに来い!」と工場の社長より返信が来て
当時の会社社長の好意で初めて海外(といっても中国の片田舎だが)へ行かせて頂き、リアルなバッグ作りの現場を隅から隅まで見せてもらい、体験させてもらった。
縫製工場だけでは無く、印刷工場や金具工場、ワッペン工場やテープ・ファスナー工場など、行ける範囲の全ての工場を見せて頂いた。今思えば、破格の対応だった。
そして早朝から深夜まで、現地の同世代の工員と一緒になって学ばせて頂いた。食事も一緒。休憩も一緒。
その工場との行き来は、それ以降毎月1回7日間のサイクルで続いた。
ある時、生産ラインで検品していると「日本の歌を歌ってくれ」と頼まれた。
恥ずかしいから嫌だと言うと、ラインのミシンが全て止まり「歌ってくれないと作業しない」と言われた。
仕方なく「世界に一つだけの花」を下手なりに懸命に歌ったらフロアの皆から笑顔と拍手をもらった。
恥ずかしかったが、とても嬉しかった。
何だか工場の皆に「もの作りの一員」として認められたような気がしたからだ。
もの作りとは
若い頃から昼夜問わずミシンを踏み、重度の腱鞘炎で救急に連れて行かれたり、ミシンで大怪我をしながら少しずつ身に付けていくもので決して机の上で、パソコンの前で成せるものではない。
現場を知らない「もの作り」は、もの作りでは無い。
その後、縁あって別の会社に就職し
そこで某ファッションデザイナーさんのコレクション用バッグサンプルの製作を手伝わせて頂いた。
これが3番目の出来事。
正直、よくわからない斬新な二次元のイラストを三次元に起こす作業はとても根気のいる事だったが、デザイナーの方との会話から多くの事を学ばせて頂いた。
工場へ赴き、10日間ずっとサンプルチームと格闘しながら何とか完成。デザイナーさんへ提出。
すると、韓国で行われるコレクションに招待してくれると言う。
ランウェイの末席に座らせて頂いてショーを観覧させてもらえた。
初めての経験で緊張したがショーが始まり、アップテンポの音楽が鳴り
外国のモデルさんがランウェイを歩き出す。
しばらく経つと、自分の手がけたバッグを持ったモデルさんが登場。
初めて身体の芯が震えた。胸が一杯になり、細胞の全てが震えているのを強く感じた。そして、自分はこの仕事で生きていくのだと直感した。
その後、ミセス向けのカジュアルバッグやメンズ用カジュアルバッグなどの企画経験を経て
最後の会社員経験をさせて頂いた企業に転職し、私のライフワークともなる「マザーズバッグ」と出会った。
これが4回目の出来事。
ちょうど妻が妊娠後期だった事もあり、自分も使うかもしれない「マザーズバッグ」の企画は他の商品企画より自然と力が入った。
ある特許を有したバッグの企画だったが
当時、一緒に開発して頂いた某通販会社のバイヤーさんと
それこそ昼夜を問わず休日も関係なく取り組んだ。
(妻には苦労をかけっぱなしです。)
その甲斐あってか、市場で高評価を頂き
自分の企てが間違えていない事を確信した。
そして「マザーズリュック」。
今はもう無い、某通販会社のMDさん、スタイリストの上村若菜さんと一緒に作った多機能マザーズリュックも、市場で評価して頂け現在に至っている。
私は人に恵まれ、時に恵まれ、縁に恵まれた。
本当にかけがえのない時間を過ごさせて頂いた。
一人でいることが好きで、特に具体的な夢もなく育った私が
もの作りと出会い、育てられ、自分の存在意義を見出せてもらった。
ネガティブな出会いも、もちろんあった。
裏切られたと感じてしまう出来事も多くあった。
でも、そんな出来事も今の私を形作る素になっていることは
間違いなく、そんな人がいたからこそ
今の自分があると思うと、本当に感謝しかない。
今回、独立したキッカケもそうだった。
会社という規模で見れば私が間違えているのだろう。
その事で恩義ある社長にも迷惑をかけてしまった。
でも、どうしても譲れなかった。
その人が使いやすい機能性。
その人が使ってポジティブになる機能性。
その人が持っている事を安心と感じる機能性。
その人が半年使って、さらに使いたくなる機能性。
その人が少しだけ幸せになれるファッション性。
作る人が誇りに思える商品。
作る人が自分も使いたくなる商品。
作る人が愛おしく感じる商品。
そんな商品を世の中に誕生させたい。
作り手が直接使い手へ、手渡しするような距離感で。
使い手の疑問を作り手が直接答えられる距離感で。
作り手と使い手の双方が納得する価格で。
一切の妥協、売り手のエゴや都合が内包されたものを作りたくない。
日本だけではなく、世界中の「バッグ」を使う人たちに
私の思う「バッグ」を届けたい。
そんな思いで「星野太郎バッグデザイン研究株式会社」を
作りました。
私が「もの作りに費やしてきた時間」=「研究成果」を
商品や情報として提供する会社です。
それは過去形ではなく現在進行形として。
研究はまだまだ続きます。
その全てを、出会えた全ての人に。
感謝の気持ちと共に。
星野太郎
そんなことを良く考える。
バッグ・カバンが存在する理由とは一体何なのだろう。
まず浮かぶのは、「物を運ぶ袋」
これが一番大きい理由だと思う。
様々なライフスタイルの中で、それぞれのシーンに合わせ
バッグは進化し、細分化されてきた。
おそらく最初にこの「袋」を用いたのは数万年前。
狩猟に関する物、水の運搬、移住だと思う。
そして農耕による作物を収穫・輸送する為の袋。
貨幣を包み運ぶための袋。
装飾品を持ち歩くための袋。
そうやって人は「袋」を用途に合わせて材料を変え、形を工夫し持ちやすく、沢山の荷物を入れやすく進化させてきた。
そして現在、世の中には星の数ほどの「袋」が存在している。
そして、ふと思った。
「ファッション」という概念が一人歩きをして、本来の存在理由を忘れてしまった「袋」が多すぎではないかと。
もちろん、ファッションが不必要なものだとは考えていない。
ファッションには気分を高揚させる不思議な力がある。
それが無ければ世の中はつまらないものになるだろう。
しかし、バッグとは本来物を運ぶための「袋」であり、ファッションの小道具としての「袋」ではない。
その人が使いやすい機能性。
その人が使ってポジティブになる機能性。
その人が持っている事を安心と感じる機能性。
その人が半年使って、さらに使いたくなる機能性。
これこそが、私の思う「バッグ」なのである。
そこにちょっとだけ「ファッション」を感じさせる。
ちょっとだけ。
私の「今」を決定付けた出来事が4つある。
私は一人っ子のB型で、他人に合わせようとせず一人で遊んでいる方が性に合う子供だった。
絵を描いたりレゴブロックで遊んだり。
外に出てもボール遊びより河川敷の草や生き物に触れる事が好きだった。
どちらかというと目立たない存在。
そんな子供だった。
そして普通科の高校を卒業した後、某大手建築会社の大工となった。
理由は無い。ただ、手に職をつけるような仕事の方がそうでない仕事より食べていけると思ったからだ。
将来の夢など無く、生活できれば良いと考えていた。
その会社を選んだのも、入社と同時に全寮制で2年間の修行を経て、各部署へ配属されるというパッケージだったからだ。
完全な受け身だった。
しかし、その2年間で本当に色々な事を学ばせて頂いた。
社会人の基礎、住宅建築の哲学から技術的な事まで全て。
残念な事にその多くは身に付いていないが「もの作り」の楽しさと厳しさは身に刻まれた。
極寒の早朝に行う校舎や現場の清掃。
炎天下の中、フル装備で果てしなく続く釘打ちや鋸曳き。
宅地造成前の荒地で大人の手首ほどに太く成長した雑草の草刈り。
地上5mの高さにある6cmの幅の木材の上を20kgほどの角材を担いでの移動や高濃度シンナーの
入った接着剤を使っての屋根ベニア板貼りなどなど。
とても辛かったが、先輩からの「ありがとう」や入居者の方々からの挨拶がとても嬉しかった。
自分の行動に対する他人からの好意的な気持ちを感じ、自分も社会の一部であると実感できたからだ。
この時の喜びが1つ目の出来事。
そしてある時、バッグの世界に。
誘ったのは高校時代の友人。
そしてゼロからのスタート。
素材も知らず、名前も知らず、ファッションも知らず。
それでも日々、熱中した。
楽しかったからである。
全ての事が初めての出会いで、全ての事が輝いて見えた。
「もの作り」という共通の仕事で、
自分の関わった商品が見知らぬ人の手に渡り、
その人のライフスタイルの一部になっていくことが
たまらなく嬉しく、楽しかった。
最初はサッカーで有名な某スポーツブランドのバッグ。
量販店で売っているような簡単な商品だった。
その後、某テニスブランドのラケットバッグや
スキューバダイビング器材を収納するバッグ。
某アウトドアブランドのリュックサック。
某スキーブランドのボストンバッグなどなど。
色々な「ギア物」を作らせて頂いた。
そこで私の人生を決めた2つ目の出来事が起こった。
初めて某テニスブランドのデザインコンペで競合を退け、自ら考えた多機能バッグの設計図を工場にFAXした際
(当時はまだメールなど無かった)すぐさま「こっちに来い!」と工場の社長より返信が来て
当時の会社社長の好意で初めて海外(といっても中国の片田舎だが)へ行かせて頂き、リアルなバッグ作りの現場を隅から隅まで見せてもらい、体験させてもらった。
縫製工場だけでは無く、印刷工場や金具工場、ワッペン工場やテープ・ファスナー工場など、行ける範囲の全ての工場を見せて頂いた。今思えば、破格の対応だった。
そして早朝から深夜まで、現地の同世代の工員と一緒になって学ばせて頂いた。食事も一緒。休憩も一緒。
その工場との行き来は、それ以降毎月1回7日間のサイクルで続いた。
ある時、生産ラインで検品していると「日本の歌を歌ってくれ」と頼まれた。
恥ずかしいから嫌だと言うと、ラインのミシンが全て止まり「歌ってくれないと作業しない」と言われた。
仕方なく「世界に一つだけの花」を下手なりに懸命に歌ったらフロアの皆から笑顔と拍手をもらった。
恥ずかしかったが、とても嬉しかった。
何だか工場の皆に「もの作りの一員」として認められたような気がしたからだ。
もの作りとは
若い頃から昼夜問わずミシンを踏み、重度の腱鞘炎で救急に連れて行かれたり、ミシンで大怪我をしながら少しずつ身に付けていくもので決して机の上で、パソコンの前で成せるものではない。
現場を知らない「もの作り」は、もの作りでは無い。
その後、縁あって別の会社に就職し
そこで某ファッションデザイナーさんのコレクション用バッグサンプルの製作を手伝わせて頂いた。
これが3番目の出来事。
正直、よくわからない斬新な二次元のイラストを三次元に起こす作業はとても根気のいる事だったが、デザイナーの方との会話から多くの事を学ばせて頂いた。
工場へ赴き、10日間ずっとサンプルチームと格闘しながら何とか完成。デザイナーさんへ提出。
すると、韓国で行われるコレクションに招待してくれると言う。
ランウェイの末席に座らせて頂いてショーを観覧させてもらえた。
初めての経験で緊張したがショーが始まり、アップテンポの音楽が鳴り
外国のモデルさんがランウェイを歩き出す。
しばらく経つと、自分の手がけたバッグを持ったモデルさんが登場。
初めて身体の芯が震えた。胸が一杯になり、細胞の全てが震えているのを強く感じた。そして、自分はこの仕事で生きていくのだと直感した。
その後、ミセス向けのカジュアルバッグやメンズ用カジュアルバッグなどの企画経験を経て
最後の会社員経験をさせて頂いた企業に転職し、私のライフワークともなる「マザーズバッグ」と出会った。
これが4回目の出来事。
ちょうど妻が妊娠後期だった事もあり、自分も使うかもしれない「マザーズバッグ」の企画は他の商品企画より自然と力が入った。
ある特許を有したバッグの企画だったが
当時、一緒に開発して頂いた某通販会社のバイヤーさんと
それこそ昼夜を問わず休日も関係なく取り組んだ。
(妻には苦労をかけっぱなしです。)
その甲斐あってか、市場で高評価を頂き
自分の企てが間違えていない事を確信した。
そして「マザーズリュック」。
今はもう無い、某通販会社のMDさん、スタイリストの上村若菜さんと一緒に作った多機能マザーズリュックも、市場で評価して頂け現在に至っている。
私は人に恵まれ、時に恵まれ、縁に恵まれた。
本当にかけがえのない時間を過ごさせて頂いた。
一人でいることが好きで、特に具体的な夢もなく育った私が
もの作りと出会い、育てられ、自分の存在意義を見出せてもらった。
ネガティブな出会いも、もちろんあった。
裏切られたと感じてしまう出来事も多くあった。
でも、そんな出来事も今の私を形作る素になっていることは
間違いなく、そんな人がいたからこそ
今の自分があると思うと、本当に感謝しかない。
今回、独立したキッカケもそうだった。
会社という規模で見れば私が間違えているのだろう。
その事で恩義ある社長にも迷惑をかけてしまった。
でも、どうしても譲れなかった。
その人が使いやすい機能性。
その人が使ってポジティブになる機能性。
その人が持っている事を安心と感じる機能性。
その人が半年使って、さらに使いたくなる機能性。
その人が少しだけ幸せになれるファッション性。
作る人が誇りに思える商品。
作る人が自分も使いたくなる商品。
作る人が愛おしく感じる商品。
そんな商品を世の中に誕生させたい。
作り手が直接使い手へ、手渡しするような距離感で。
使い手の疑問を作り手が直接答えられる距離感で。
作り手と使い手の双方が納得する価格で。
一切の妥協、売り手のエゴや都合が内包されたものを作りたくない。
日本だけではなく、世界中の「バッグ」を使う人たちに
私の思う「バッグ」を届けたい。
そんな思いで「星野太郎バッグデザイン研究株式会社」を
作りました。
私が「もの作りに費やしてきた時間」=「研究成果」を
商品や情報として提供する会社です。
それは過去形ではなく現在進行形として。
研究はまだまだ続きます。
その全てを、出会えた全ての人に。
感謝の気持ちと共に。
星野太郎